紅門(こうもん)
红门 / HongMen / ホンメン
岱宗坊の北、紅門路の北端に位置する。泰山中路の登山口で、紅門から岱頂まで、6600段の石段が続く。東には中渓が、西には大蔵嶺がある。嶺の南の崖にあった紅石が、門のようであったことから名づけられた。いつの創建かはわからないが、明、清代に修築がなされている。廟は東西両院に分かれ、東が弥勒院、西が紅門宮で、中央にある飛雲閣で両院はつながっている。東院の正殿には、木彫りの弥勒佛が祀られていたが、1966年に壊された。東には、表から裏へ通り抜けできる穿堂式の更衣亭がある。昔、皇帝や官吏が山を登った時、ここで着替えをした。今は茶室になっている。南には、通り抜けができる庭がある。西院は元君廟で、正殿には元君と、道教の神、送生娘娘や眼光奶奶が祀られていた。現在は、九蓮菩薩の銅像が置かれている。西には且止亭があり、泰山の風景写真の展示室になっている。南には穿堂式の茶亭がある。正殿の後方には禅房院と東西配房がある。飛雲閣には観音大士が祀られていた。今は眺望台になっている。
宮の前にある、三重の石坊は階段状になっている。手前が一天門坊で、明代に建てられ、参政龍光が額に題辞をしている。清康煕56年(1717年)、巡撫(役職名)の李樹徳によって再建され、両側に明代の人によって書かれた「天下奇観」、「盤路起工処」の碑がある。中には「孔子登臨処坊」がある。明嘉靖39年(1560年)、嘉靖の進士、羅洪先が題辞し、巡撫山東都察院右副都御史の朱衡らが建てた聯、「秦王独歩伝千古、聖主遥臨慶万年」は、1967年に穴をうがたれ、壊された。坊の西には清嘉慶元年、秦安知府撰書の『泰山種柏樹記碑』がある。後方は天階坊で、明嘉靖年間に建てられ、巡撫山東監察御史の高応芳が題辞した「人間霊応無双境、天下巍岩第一山」の聯がある。
一天門坊前の道の西には関帝廟がある。いつ建てられたかはわからない。三国時代の蜀の名将、関羽を祀っていた。明、清期に、山西の塩商が度々ここに集って祭祀をおこなった。福神を奉じている。またの名を山西会館という。1983年に再建され、現在は、国家文物局泰安訓練センターになっている。廟の東院には、コノテガシワの古木が一本生えていて、壁の外側に「漢柏第一」と刻まれている。
宮の東、谷川をはさんでその南には白騾塚遺跡がある。唐の玄宗が、白いラバに乗って泰山に登り、祈りを捧げて下山する途中、ここでラバが死んだ。それで「白騾将軍」に封じて、棺に納め、石を積んで塚を作ったという。現在、塚はなく、白騾塚があったことを伝える石碑がわずかに残るだけだ。民国年間、劉正が、碑の枠に残っていた「乗拱元年」の字を写し取って、唐高宗の『小字登封紀号文碑』にした。1988年に、もとの場所に再建されたが、文字のない碑になっている。
宮の西は大蔵嶺だ。嶺に石室があり、物を所蔵できたことから名づけられた。
宮の後方には、「小泰山」と刻まれた巨石が、そびえ立っている。碧霞元君の化身だと言われ、以前は元君小廟があった。昔は、多くの参拝者がここで線香をたいて冥福を祈った。建国後、廟は壊され、1985年に再建された。北路の西には、清代、民国年間の「合山会記」の碑が26本ほど残っており、当時、参拝者でにぎわっていた様子が記されている。現在は小碑林と呼ばれる。
紅門宮は、泰山中渓の入口。半分が閉じられている凹型の空間になっている。宮の前には、三重の白い石坊と石碑がある。高低差があり、コントラストも鮮明で、天の階段のように見える。飛雲閣からは洞の北を望める。木々がうっそうと茂り、石段がどこまでも続く。古来、「紅門曉日」の景色が有名。清の人、趙国麟が、早朝に紅門に登った時に見た景色の美しさを描写した詩を残している。
小洞天は、紅門宮北東の深い谷間にある。机のような石で、広さは12㎡、厚みは1.5mある。南側には、明代範広の書いた「小洞天」がある。谷底には断崖絶壁が重なり、滝が流れている。北から南へかけては、柳条、飲馬、石峡の三湾がある。谷側には、多くの鉄色をした円柱形の巨石がある。横断面には、木の年輪にも似た断層が見られ、「酔心」と刻まれている。漢代の文学者枚乗が、「泰山之溜穿石」(泰山の滴り石を穿つ)と言ったという。俗に「黒石埠」という。輪状に筋が入った輝緑岩は、世界的にも珍しい。ここの谷は曲線を描いており、谷川は青い淵に流れ、林は深く緑豊かで、別天地の感がある。

