普済寺(ふさいじ)
普济寺 / PuJiSi / プージースー
普済寺は、普陀山の霊鷲峰の麓に位置し、白華山の南、普陀山寺院全体の中でも主要な寺院である。又、前寺とも呼ばれている。普済寺の前身は、不肯去観音院で、唐鹹通年間に建てられた。
唐鹹通四年(863年)、日本の僧慧愕が五台山から観音聖像を日本へ持ち帰ろうとした時、船が潮音洞付近で風と大波に遭い像を洞の側に置いた。そこに住む、張氏がその像を祭り、不肯去観音院と名付けた。梁貞明2年(916年)張氏の邸宅があった、梅岑山(山頂には観音、霊鷲双峰、以前は、双峰山)に、不肯去観音院が建てられた。北宋元豊3年(1080年)皇帝の部下達が三韓(朝鮮、韓国)からの帰りに、大風に遭った。その時彼らは、山を見て、寺の改築を思いつき皇帝に告げた。そして、彼らは、”宝陀観音寺”の改築を賜ることとなった。慶元年間(1195年~1200年)準衛工史、弥遠は、列宝陀寺は、江南の”教院五山十寺”の一つであると言った。元朝から何度も壊れては、修復し、拡張していった。清の康熙(1662年~1723年在位)は、雍正年間(1723年~1736年)に、普済寺を現在の形に修繕し、殿宇およそ10箇所、楼棟12棟、堂軒等およそ300箇所を建築し、規模を拡げ、島の中で最大の寺院となった。大圓通宝殿は、”100人一緒に入ると広く感じず、1000人揃って入っても窮屈に感じない”という事から、”活大殿”と呼ばれている。この殿には、観音大士が祭られているが、その他の寺院の如来佛とは一緒には、祭られない。観音像は、高さ6.5メートル、蓮花の台2.3メートル荘厳で慈悲深い顔立ちである。周りを三十二化身像に囲まれている。寺の前には、海印池、蓮の花、池上の八角亭、御碑亭、東南側には、元代(1206年~1368年)の多宝塔、風変わりな建物、精巧な彫刻がある。元代の彫刻や建造物は風格を持っており、とても貴重な文物である。寺の裏には、鷲の形をした石があり、名前を”霊鷲石”又は、”慈雲石”という。岩の隙間から清洌泉の水が寺の中に流れ込んでいる。現在、普済寺は、普陀山の仏教活動が中心で重大な佛事は此処で行なっている。普陀山佛教協会の所在地でもある。1983年普済寺は、国務を行なう寺院の中で、外部に開放している、全国で最も重要な寺院となった。

